白髭神社(園部町口司)
園部町口司の白髭神社です。園部町口司と八木町池ノ内をつなぐ鎌掛峠に祀られている峠の神です。白髭明神の祠の反対側には明治37年(1904年)に設置された小さな町界標石が残っていて、正面には「鎌掛峠道路改修紀念」、左側に「東 池ノ内」、右側に「西 口司」と刻まれています。付近の小字もカマカケと言いますが、土地の伝承では、後白河法皇がこの峠で休息した際に冠を掛けられたことにちなんで古くは「冠掛峠」と呼ばれていたそうですが、いつの頃からか鎌掛峠と呼ばれるようになったと伝えられています。園部町口司は江戸時代の上口人村と絹掛村が合併して生じた集落なのですが、峠の麓にあった絹掛村には村名の由来にもなった「絹掛の松」の伝承が伝わっています。以下、『園部101年記念誌 翼』からの抜粋になります。
『絹掛の松伝承には二つの説があります。
<後白河上皇の「冠掛の松」伝承>
保元の乱で勝利を得た後白河上皇は1156年、1169年、1192年の三度にわたり旧大内村楽音寺を訪れ、途中、鎌掛峠にて休憩の時、着用していた冠を道端の松の木にかけ一休みされました。後に村の人々は「冠掛の松」と言い、この峠を「冠掛峠」といったそうです。
<尊良親王の「絹掛の松」伝承>
建武三年(1336年)四月、九州より再度京都へ攻めのぼってきた足利尊氏は5月25日、神戸湊川にて楠木正成軍を破った。楠木正成の友軍 新田義貞は楠木軍を敵中に置きざりにして、後醍醐天皇の皇子 尊良親王と共に、福住・天引峠から鎌掛峠・池ノ内を至て、木原・玉ノ井・柴山の山麓を京都へと逃げ帰りました。途中、絹掛村に入った時、長旅の上に峠をこえての敗走だったのでつかれはて、道端の枝ぶりのいい松に衣をかけて一休みされました。それ以後、村人はこの松を「絹掛の松」と言い伝えてきました』
民俗学者の柳田國男氏は『掛神の信仰に就て』と言う論考の中で「神に物を供ふるに之を樹木又は巖などに引掛くると云ふは甚だ顯著なる特性なり。今日の神祭にても通例は假の折敷又は木葉などの上に供物を盛ることなるに一種物を木の枝などに掛けて祭る神あり。東京の近郊にても散歩の序に多く之を見ることあり。大抵道神なれば路傍に在りてよく目につくなり」として、いくつか関連した地名を挙げていますが、その中には「丹波船井郡摩氣村大字口司字鎌掛」と当地の名も記されています。松は古くより神の依代として考えられてきた樹木で、貴人が冠や衣を掛けたと伝わる伝承も、かつて行われていた神祀りの姿を反映したものなのではないかと思われます。峠の名は冠掛から鎌掛に変化したと伝えられていますが、冠掛も鎌掛もカンカケやカマカケ、あるいは、カギカケといった古い習俗を表す言葉に漢字を当て嵌めた地名で、語義としては同じなのだろうと思います。当地に残る伝説の史実性はともかくとして、かつては交通の要衝として重要視されていたこと、また、鎌掛・冠掛・絹掛には柳田國男氏の言うような掛神の信仰など何らかの習俗の名残を感じ取ることができます。一見すると何の変哲もない小さな峠ですが、実は民俗学のエッセンスが詰まった興味深い峠だったりします。
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