大杉稲荷神社(園部町船岡)

園部町船岡の大杉大明神

 

 園部町船岡の大杉稲荷神社です。当社は若狭街道の諏訪山峠にある通称「諏訪の森」に祀られている神で、大杉大明神の他に千葉大明神と諏訪神社が共に祀られています。当社には「諏訪の森物語」として以下のような少し恐ろしい伝説が残されています。(『大堰の流れ』より引用)

 「丹波そのべの船岡に、むかーし気味の悪い底なし沼があった。そこの”諏訪ノ森”といわれるところに狐がたくさん住んでおり、人をよくバカにしたそうな。あれは日露戦争のあった明治三十八年ごろ、ここに山陰鉄道が通ることになって、全国から大勢の人夫が集まって来たそうな。トンネルあり、鉄橋ありの難工事やったが、その中でもこの沼になんぼ土や石を入れても枕木が敷けんかった。ある晩、飯場に寝ていた若い男の枕元へ、闇の中から白い姿のきれいな女があらわれた。その女が毎晩々々やって来て、しまいに顔や身体を舐めたので、びっくりして我にかえると白い狐やったので、男は怒って殺してしもうたんや……。それから毎晩、その男は白狐の女に誘われては底なし沼に沈む夢でうなされるようになり、森の中に狐火が出るようになった。とうとう諏訪山のトンネルのレンガがくずれて犠牲者が出てしまい、そこになんと玉石を巻いた白蛇が二匹、カマ首を持ち上げておったそうな。村の者は「その蛇は諏訪山の主や。 使いの白狐を殺してしもうたんや」と大騒ぎ。工事人や村の代表者が伏見の稲荷社に参詣して明治四十一年に正一位大杉稲荷大明神を諏訪の森に移し、諏訪神社と共に仲よく祀った。それからでも不思議な話がたくさんあって恐れられたけど、願い事をよう聞いてくれはる神社として夜中に”願”をかける者が絶えなんだ……。千葉大明神も合祀し、その山の木を切ると”厄い”が起こるので、いつの間にか、”お(惜?)しんぼ山”といわれるようになった。

 大杉大神が勧請されたのは比較的近年のことのようですが、伝説にあるようにそれ以前より白蛇の姿をとって顕れる別の神があり、それは”諏訪の森”の名の通り諏訪神であったのでしょう。江戸時代に記された『寺社類集』の上河内村の項に大杉大明神の記載は当然ありませんが、諏訪明神森社の記載があり、おそらく当社に祀られている諏訪神社のことを指しているものと思われます。『大堰の流れ』によると、大杉稲荷大明神は元々は諏訪山峠を千妻側へ下ったところにあったお宅の地神さんだったようで、千葉大明神も青門(地名か?)の地神さんだったとの記載があります。現在は稲荷を主体に祀っている当社ですが、元々は諏訪神こそがこの地の地主神だったわけです。伝説には典型的な祟る神の姿がえがかれていますが、これは当地の神の性格として地域の人々に認識されていたものなのでしょう。山の木を切ると厄いが起こると意識されていたのはおそらくずっと昔からで、大きく地形を変えてしまうような当地の工事は文明開化の明治時代においても地元からは不安視されていたのではないでしょうか。『大堰の流れ』には「丑満時になると、トンネルや鉄橋が、”キーン、キーンと不思議な音をたてるのは工事中犠牲になった人の魂の叫び”」との噂があったことが記載されていますが、諏訪の森の恐ろしい伝説も、当地に祀られていた諏訪の神への畏れと、鉄道の難工事が合わさって生まれた伝説なのだと思います。

 千妻と船岡を結ぶ新しい諏訪山峠道の頂上付近に鳥居があり、わずかに山道を進んだ先に大杉大明神を祀る小祠があります。大杉大明神の左右には千葉大明神と諏訪神社の扁額も掲げられていて、諏訪神社の小祠と千葉大明神の方にはご神体でしょうか? 丸石が祀られていました。神社の反対側にも鳥居があり、JRの船岡駅に向かって小さな道が続いています。旧版地図を見るとかつての街道は峠から北側の谷に向かって下っていたようで、駅のある谷から登ってくる道が元々の参道だったようです。神社の裏手にある杉の木の根元は洞になっていて、小さな鳥居が奉納されていました。こちらは伝承の白蛇を祀ったもののようです。

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新しい諏訪山峠道の頂上付近の道路わきに建つ鳥居
新しい諏訪山峠道の頂上付近に建つ鳥居
 
大杉大明神の扁額
大杉大明神の扁額
 
鳥居が並ぶ
鳥居が並ぶ 稲荷講社中とある
 
緑濃い森の中に鎮座
緑濃い森の中に鎮座
 
本殿覆屋
正一位 稲荷大杉大明神の小祠の左右に
諏訪神社の小祠と千葉大明神の丸石が祀られている
 
覆屋内の小祠
覆屋内の小祠
 
由緒が掲示してある
由緒が掲示してある(諏訪の森物語)
 
杉の木根元の洞内に小さな鳥居が奉納されている
根元の洞内に小さな鳥居が奉納されている
 

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