金刀比羅神社・秋葉神社(園部町船岡)

園部町船岡の金刀比羅神社・秋葉神社

 

 園部町船岡の金刀比羅神社・秋葉神社です。船岡集落の北側に突き出すように延びる低い丘陵があり、その中腹に鎮座しています。創祀の年代は不明ですが、明治四十五年発行の二万分一地形図にもこの場所に神社記号が記されており、古くから祀られている小祠であることは確かなようです。金毘羅・秋葉は江戸時代に流行し、丹波でもこの二社が並んで祀られているのをしばしば見かけます。『大堰の流れ』には「この神社には氏子がなく、崇敬社である。総代は月読神社の総代が兼務する習わしである」と記載されています。昭和三十五年頃までは秋葉講があったようで、毎年八月十八日に当社に参り、境内神域の掃除をして山上にてお神酒を頂いていたとのことです。

 船岡集落の外れにある大将軍の辻を旧若狭街道に沿って進むと、JRの踏切の手前に左手の斜面を登る小さな山道が見えます。ちょうどJRの船岡山トンネルの真上辺りになるのですが、山道を登った先の森の中に少し広い空間があり、小さなお堂に数基の卵塔、大山祇神社・春日神社・久延毘古神社が祀られています。少し離れた場所には細川氏の被官として中世八木城を拠点に栄えた内藤氏の一族(船岡内藤氏)の墓地もあります。『丹波 第19号』の中の「藁無高山城落城物語の謎」という論考には「船岡内藤家の墓地は船岡トンネルの上にあり、その北側に今は卵塔と薬師堂のみ残る地福寺の跡地がある」と記載されていますので、おそらくここがその跡地なのだと思われます。江戸時代に記された『寺社類集』の上河内村の項には臨済宗妙心寺下雲禅院末として小柴山地福寺の記載があり、開基は郷民の内藤清閑同太兵衛とあります。現在は廃寺となっていますが船岡内藤氏ゆかりのお寺だったのでしょう。

 この跡地から先にも山道は続いていて、ゆるやかな登り坂の途中には不明の小祠が祀られています。もしかしたら行者さんかなとも思うのですが、詳しいことはよくわかりません。山道をさらに登ると古い配水池があり、さらに進んだ先に金刀比羅神社・秋葉神社の立派な祠が祀られています。山中にぽっかりと開けた不思議な空間。祠に日差しが射しこむ心地のよい場所で、なんだか神妙な気分になります。なんの変哲もない集落の裏山にこんな場所があるとは思いませんでした。

 祠より先にも山道が続いているようで、旧版地図では園部町と日吉町の境になっている山々を通って志和賀まで破線の道が確認できます。船岡と志和賀の月読社の神使(猿と兎)が行き来するとされている道のことを御幸道と言いますが、『大堰の流れ』によると御幸道は2つあったそうで、一つは藁無から横尾峠を越える道、もう一つは「月読神社の藪の西側の道を北へ(中略)その山すそから天神山へ、地福寺、行者さん、森の奥、本谷、殿山より志和賀へ」とあり、おそらく麓から当社の先へと続いている山道のことを指しているものと思われます。この辺りの山塊は標高400mほどの低山ではありますが、現在では忘れられた山岳信仰・修験の活動の痕跡が点々と残されている山域でもありますので、金刀比羅神社・秋葉神社もこうした宗教者の手によって祀られたものなのかもしれません。祠のある丘陵は集落へと突き出すように延びていて、どことなく奥山に対する端山の雰囲気が漂います。一見何の変哲もない集落の裏山ですが、月読社の神使も行き来する不思議な祭祀空間が広がっていました。

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出典:旧版二万分一地形図 園部・須知村 明治四十五年(国土地理院)をもとにaralagi作成
出典:旧版二万分一地形図 園部・須知村 明治四十五年(国土地理院)をもとにaralagi作成
 
地福寺の跡地と思われる
地福寺の跡地と思われる
 
薬師堂に掛けられた石
薬師堂へ掛けられていた 穴石の類だろうか
 
大山祇神社・春日神社・久延毘古神社
大山祇神社・春日神社・久延毘古神社
 
お堂から先も山道が続く
お堂から先も山道が続く
 
山道の途中の小祠
途中にも小さな祠が祀られている
御幸道の途中にあるという行者さんだろうか
 
古い配水池
古い配水池
 
森の中にぽっかりと開けた空間
森の中にぽっかりと開けた空間
 
金刀比羅神社・秋葉神社
向かって左が金刀比羅神社 右が秋葉神社
 
船岡集落へ延びる丘陵
万燈山から船岡集落へ延びる丘陵
右端付近に地福寺跡地があり左の高圧送電鉄塔付近に金刀比羅・秋葉の小祠がある
 

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