若宮神社(園部町越方)

南丹市園部町越方の若宮八幡宮

 

 園部町越方(おちかた)の若宮神社です。祭神は応神天皇。創祀の年代や由緒など詳しいことは不明ですが、当社の神輿に「延宝七年(1679年)仲夏 黄檗山宝蔵院 藤原光永 議に依って制作す」と記されていることから、少なくとも江戸初期には当地に祀られていたことがわかります。『船井郡神社誌』では「現在の社殿を一見しても五百年の星霜を経過したもの」と推測しています。当社の創祀がどのくらいまで遡れるのかはわかりませんが、越方地区の鎮守として今でも変わらず崇敬されています。

 当社は大堰川のほとりに社地がありますが、丁度境内に隣接する位置に堰が設置されており、この堰を挟むようにして対岸に高屋の春日神社が祀られています。この堰のすぐ下流の河原では毎年十月第二日曜日(古くは十月十五日)に周辺地区四社合同の神幸祭りが執り行われます。この祭りがいつ頃から行われているものなのかはわかりませんが、大堰川沿いの集落の地域的な繋がりを示す興味深い内容ですので、『図説 園部の歴史』より紹介したいと思います。

  • 川辺地区の月読神社(船岡)、春日神社(高屋)、武尾神社(大戸)、若宮神社(越方)の四社が集まり例祭と神幸祭りが行われる。
  • 正午になると春日神社より「七道半の使」と称し、紋付裃姿の使者が月読神社に参拝し神輿のお迎えを告げる。使者が帰ると月読神社では御旅所への渡御の準備を整える。
  • 古く御旅所は「政ヶ糸地」にあったが、度重なる水害のために新庄堰下流に移動した。以前は月読神社から大堰川を船で下り、若宮神社の神輿と四体が並んで大変賑わったようで、昭和二十四・五年頃までは川の中まで渡御が行われていた。現在は、川を挟んで両岸の堤防上で「月読神社・春日神社・武尾神社」の三社と「若宮神社」に分かれて行われるようになった。神事は先に三社の方で執り行われ、その後、若宮神社で神事が行われる。
  • 御旅所への渡御は榊を先頭に、御幣・鉾・剣・長刀・太鼓・弓的・神輿・鞍掛・御膳・氏子・一般と並んで行われる。月読神社の神輿に先立って武尾神社の神輿は春日神社に到着しており、春日神社は月読神社の神輿が御旅所に着く頃を見計らって御旅所へ出発する。途中、三社の神輿が揃ったところで、それぞれの神輿を頭上まで三回差上げ威勢よく神輿を揺らし歓声を上げて出会いの挨拶を交わす。御旅所への渡御の順序は武尾神社、春日神社、月読神社の順で行われる。
  • 神輿は川に向かって春日神社を中心に左に月読神社、右に武尾神社が並ぶ。そして各社祝詞奏上の後、直会に入る。(川渡御が行われていた頃は、月読神社・春日神社を中心に左に若宮神社、右に武尾神社が並んでいた) 直会は神酒、甘酒、おしろい餅、枝豆で執り行い、各氏子ごとに別れて集まるが、宮司は春日神社の席に座る。
  • 直会の進んだ適当な時間を見計らって月読神社の正・副二使による口上があり、それにより直会を終了し、春日神社神輿の神前において、角力と射礼の奉納を行う。角力は月読神社と春日神社より一名づつ出て、双方が向かい合って両掌を握り合いながら左へ七回半廻り、決着はつかずに引き分けに終わる。射礼は月読神社と春日神社の一年交代の弓術奉納で、七回的を射る所作を二回繰り返し、最後の一回の的を射る。角力・射礼共に七度半が基本単位であるが由緒については不明である。
  • 神事が終わると神輿を頭上まで三回差上げ別れの挨拶を交わし、春日神社の神輿を先頭とし、月読神社、武尾神社の順に還御する。春日・月読・武尾神社の神輿は出会いの場所で別れ、それぞれの地域に戻り町内を練り歩く。春日神社の神輿は、昔は遠く熊原地区や佐切地区の方まで出かけ大歓迎を受けた。

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集落から続く参道沿いの石灯籠
集落から続く参道沿いの石灯籠
 
社頭の鳥居大堰川そばの境内 前面には水田が広がる
社頭の鳥居
大堰川のほとりの境内 社前には水田が広がる
 
若宮神社 拝殿
若宮神社 拝殿と本殿覆屋
 
若宮神社 本殿
若宮神社 本殿
 
八幡宮の扁額
八幡宮の扁額 鳥居には若宮八幡宮の扁額も
 
境内社 稲荷社(左) 天満宮(右)
境内社
稲荷社(左) 天満宮(右)
 
境内社 住吉神社(左) 不明の小祠(中) 厄神社(右 )
境内社
住吉神社(左) 不明の小祠(中) 厄神社(右)
 
大堰川の傍にある境内地
大堰川の堰のほとりにある境内地(右手の森)
対岸には高屋の春日神社
この河原で川辺四社の神幸祭が執り行われる
 

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