太神宮社(園部町熊原)

南丹市園部町熊原の太神宮社

 

 園部町熊原の太神宮社です。祭神は天照大神。創祀の年代は不明ですが、古老の口碑によると文明年間(1469~1487年)の創立と伝わっています。明治以降、社名を太神宮社としていますが、江戸時代に記された『寺社類集』の熊原村の項には「産神 神明宮」とあり、古くは神明宮と呼ばれていたことがわかります。『寺社類集』には末社として春日社と八幡社の名が見えますが、現在はこれら三社が一つの覆屋に合わせて祀られています。

 当社はもともとは二柱(一柱?)を祀っていたようですが、『ふるさと史 大堰の流れ』に「いつの時代かわからぬ大洪水の際、不思議にも社壇のまま宮の下に留まり御座ったのを村人が有難がり、合祀して三柱となった」とその変遷を伝えています。流れ着いたのがいずれの神なのかは不明ですが、春日社や八幡社のご祭神からは高屋の春日神社や越方の若宮神社など、大堰川上流域の村々との繋がりを想起させます。一方、大堰川筋や園部川筋には上流から神(や神輿)が流れ着いたとする伝承を伝える寺社も多く、この伝承も当社に祀られている神の性格そのものを表しているのかもしれません。『広報そのべ』の中の「ふるさと探訪」と言うコラムでは「明治時代に社名の神明を天照大神に直結してしまったが “もともとは土着性の濃い神様だった”」としたうえで「川沿いの神社ですから、水に関わるミクマリ(水分)の神といってよいでしょう」「正月朔日の行事にアマテラスにだけお餅を供え、他の神には供えないのも、村人たちにはよほど恐ろしい神様だったからにほかなりません」とその性格を推測しています。この説に関係があるかはわかりませんが、当社に隣接して大堰川の熊原堰が設けられており、熊原の他に、雀部・広垣内・神田(現・八木町美里)の四村が水利の分配を受けています。藩政時代から重要な堰で、修復などの費用は全て園部藩から全額支出されていたようです。

 熊原集落の外れ、背後の山から大堰川に向かって延びる支尾根の先端部に鎮座。神社の前で大堰川の流れは大きく湾曲し、ここには先にも述べた熊原堰が設けられています。白塀に囲まれた入口の鳥居をくぐると、砂利が敷き詰められた明るい境内。敷地内には境内社として山の神と八坂社(祇園社)が祀られています。これらは明治時代に遷されたもので、『寺社類集』には熊原村に山神森社と三ノ尾森の二社が記されていて、『広報そのべ ふるさと探訪』では「三ノ尾の森は境内の八坂社のもとの姿で疫神を祀ったもの」としています。なお、神社の背後の山は宮山で、『ふるさと史 大堰の流れ』には「岩石聳え立ち、幼時村童と共に峭崖のまにまに、もくらん、もっこく、岩芝など採集せんと危険を冒して登りかけ後へも先へも行けず困った時の恐ろしかったこと今も忘れない」という話が載せられています。文章からすると宮山は険しい岩山のようで、もしかすると、磐座などがあるのかもしれません。

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太神宮社の鳥居
境内入口の鳥居
 
明るい境内に新しい社殿
森の中の明るい境内 新しい社殿
 
三柱の神を祀る それぞれに格子戸が設けられている
三柱の神を祀る それぞれに格子戸が設けられている
 
山の神の祠 丸い石を祀る
山の神の祠 丸い石を祀る
 
八坂社 祭神は素戔嗚尊と秋葉神
八坂社(と秋葉社?) 祭神は素戔嗚尊と秋葉神
 
熊原堰
熊原堰
 

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