旧版地図で見る上木崎町・木崎町・河原町の神社・地蔵・石神

上木崎町・木崎町の旧版地図
出典:旧版二万分一地形図 園部 明治四十五年(国土地理院)をもとにaralagi作成

 

 上図は明治45年発行の旧版1/20000地形図です。江戸時代には上木崎村、下木崎村の二村があり、上木崎村は山陰街道沿いに発展した川原町(大樹観音堂のあるあたり)、下木崎村は上図右側の川端と書かれたあたりまでを村域に含んでいました。現在は上木崎町、木崎町、河原町の3つの地区に分かれています。

 この地区を特徴付けているのが、中畷古墳、垣内古墳(内林町)といった古墳時代前期の大型古墳と、山陰道、若狭街道、篠山街道といった大きな街道の分岐点です。図で黄色く示したところが明治時代の山陰道。京都(図右側)から園部の城下町を進み、園部川にかかる園樹橋を渡って左に進む道が江戸時代の旧道で、河原町の町外れにある大樹観音堂で山陰道と篠山街道が分岐していました。城下町には園栄橋と書かれたところからも北に向かって大きな道が伸びていますが、こちらは若狭へ向かう若狭街道となっています。まさに交通の要衝という言葉がぴったりの場所ですが、それは古代においても同様でした。

 丹波とよばれる国は後の丹後と丹波を合わせた広大な領域を指していましたが、もともと、この古代丹波で大きな勢力を持っていたのは日本海に面した丹後地域の方でした。それは海を介した交通、出雲や九州、その先の朝鮮半島との交渉において畿内王権が丹後を重要視したためと考えられています。垣内古墳は同時期(古墳時代前期)の丹波地域では他に類を見ない規模の大型の前方後円墳ですが、こうした古墳が築かれた背景として『図説 園部の歴史』は「交通の要衝にあった垣内古墳は、ヤマト王権の中心である奈良盆地と日本海側の重要拠点であった丹後半島を結ぶ線上にあり、畿内から、亀岡・園部盆地を経て、丹後まで安全にたどり着くには、垣内古墳の被葬者の協力が必要であった」と述べています。丹波を治める勢力の中心は、古墳時代中期以降、篠山盆地、亀岡盆地へと移っていきますが、この地を治めた豪族はその後も一定程度の勢力を保持したのではないかと思います。律令期、地図に見える地域は木前郷と呼ばれるようになりますが、その郷名を冠した城崎神に882年、朝廷より従五位下の神階が奉授されています。

 地図には2つの鳥居記号が見えますが、南にあるのが城崎神社です。古く木前の郷名を冠した神社で、この辺りはかつて木前郷の中心地だったものと思われます。現在、城崎神社は上木崎町にありながら隣町の内林の氏神となっていますが、これも当社が木前郷の総鎮守だったころの名残と考えられています。その北側あるのが春日神社で、もともとは城崎神社の分霊を祀ったものと伝えられています。(城崎神社が里宮、春日神社がその奥ノ宮であるとも) 地図の右手、線路が描かれているあたりの谷間には、かつて善願寺という中世の寺院があり、明智光秀の丹波攻略で焼け落ち廃寺になったと言われています。今はその形跡もなく往時の姿を知るすべもありませんが、かつてはかなりの大寺院だったようで、付近には善願寺と関係のある石仏や逆修碑、五輪塔などが点在しているそうです。この辺りには、かつて善願寺の門前町が広がっていたのかもしれません。

南丹市の地蔵・石神5(園部町河原町)

 河原町の集落の外れ、園部川の堤防下の道路脇に祀られていました。(旧版地図 A位置) 小さな道ですがこちらが江戸時代の旧街道。ここから大樹観音堂までの間には街道筋らしい古い町並みも残っています。

川原町の旧街道沿いのお地蔵様
旧街道沿いのお地蔵様

南丹市の地蔵・石神6(園部町上木崎町)

 国道9号線から上木崎の集落へ向かう小さな道沿いに祀られていました。(旧版地図 B位置) 田んぼの中に食い込むような形で祠が立っています。地蔵・石神の類は道路敷設や宅地開発の際に元あった場所から移動することも多いのですが、何があっても動かん!という強い意思を感じるものも結構あります。

 『園部101年記念誌 翼』には「上木崎の大入道」と題して、次のような民話が記載されています。

「上木崎町の春日神社と、山陰街道の間の小さな道に、昔、大きな狸が棲んでいて、夜になると身の丈ひとたけもある大入道に化けて、大きな高下駄をはいて、カランコロン・カランコロンとならしながら歩き、道行く村人をおどかしていたといいます。その時よりこの道を「入道」というようになったといいます」

 入道は今も地名として残っていますが、大入道が出たという小さな道とは、お地蔵様の祀られているこの道のことかもしれません。

田んぼのなかの地蔵祠
田んぼのなかの地蔵祠
美人の化粧地蔵
優しい雰囲気の化粧地蔵 美人顔

南丹市の地蔵・石神7(園部町上木崎町)

 春日神社へ向かう道の脇、小さな用水池のほとりに祀られていました。(旧版地図 C位置) 参道沿いに祀られていたものでしょうか。

春日神社 参道沿いの石祠
用水池のほとりの地蔵祠
二体のお地蔵様
二体のお地蔵様

南丹市の地蔵・石神8(園部町上木崎町)

 上木崎町の住宅裏の山裾に祀られていた六地蔵です。苔むした、歴史を感じさせるたたずまいです。山道の先には古い墓地がありました。

上木崎町の六地蔵
上木崎町の六地蔵

南丹市の地蔵・石神9(園部町上木崎町)

 長生園という老人ホームの駐車場の裏に立派な地蔵祠がありました。(旧版地図 D位置) 元々ここに祀られていたものなのでしょうか? もしかすると、上木崎町や内林町の宅地整備の際に町内から集められてきたものなのかもしれません。祠のプレートには「和み地蔵」と書かれてありました。

 ところで私の育った地域では石造物と言えばほとんど”お地蔵さま”と呼ばれていたのですが、実際の所祀られていたのはお地蔵様だけではなかったような気もします。ここに祀られているお地蔵様も、五輪塔の一部や、関東にあったら「双体道祖神では? 」と言われそうなものも。こういう地域性も面白いところです。

上木崎町の和み地蔵
和み地蔵
色んな形のお地蔵様が祀られている
色んなお地蔵様が祀られている
心落ち着く
心落ち着く丸いフォルム 和む

南丹市の地蔵・石神10(園部町木崎町)

 木崎町の陣田川にかかる橋のたもと、アパートの脇に祀られていました。(旧版地図 E位置) 名前を逆修地蔵尊といいます。なんの変哲もない場所に思えますが、ここは中世まで存在した善願寺という寺院の参道だったようです。園部教育委員会『石造物調査』には「子どもに先立たれた両親が吾が子の為にまつり祈ったものであろうと伝えられている」と記載されています。逆修とは、生前にあらかじめ死後の菩提を祈って仏事を修すること。また、年長者が年若くして死んだ者の追善供養をすることも逆修と呼ぶようです。

逆修地蔵尊
逆修地蔵尊

南丹市の地蔵・石神11(園部町木崎町)

 逆修地蔵尊から木崎町の大通りへ出でると、正面の民家の脇に地蔵祠がありました。ここもかつては善願寺の参道だったのでしょうか。元々はもっと大きな石仏の、その上半身部分のように見えます。

木崎町の地蔵祠
木崎町の地蔵祠
石仏の上半身部分か
石仏の上半身部分か

中畷古墳(園部町上木崎町)

 中畷古墳は古墳時代前期の前方後方墳です。当地域にあっては、古墳時代最初期の黒田古墳から、後の垣内古墳へと続く有力首長墓と考えられています。現在、墳丘は原型をほとんど保っていませんが、後方部墳頂には五輪塔が草に埋もれるように置かれていました。

中畷古墳
中畷古墳 右奥の小丘が後方部
後方部墳頂の五輪塔
後方部墳頂の五輪塔

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