都々古和気神社(園部町熊崎)

園部町熊崎の都々古和気神社

 

 園部町熊崎の都々古和気神社です。祭神は天手力男命。『船井郡神社誌』には少し複雑な由緒が書かれていますので順を追って説明したいと思います。まず、都々古和気神社ですが、当地開拓の祖と伝えられる田中兵衛公が出身地の氏神である奥州一之宮 都々古和気神社の分霊を勧請したもので、もともとは”田中”という地に祀られていました。一方、現在地には熊野神社が祀られていて、こちらも古くから崇敬されていました。その後、都々古和気神社が現在地に移り、この際に祭神が味鉏高彦根命から天手力男命に変わりました。(境内社の柊神社のご祭神が味鉏高彦根命だったため祭神はそちらに移し、変わって天手力男命を奉祀したとのこと) また、熊野神社はこのとき、淡路神社と名を変え、都々古和気神社の境内社になりました。 、、、ということなのですが、複雑すぎてなんとも理解しがたい内容です。どうも明治時代の神仏分離、神社統合の際に混乱が生じているような気がします。

 江戸時代に書かれた『寺社類集』には熊崎村の項に関係がありそうな二社が記載されています。一社は「熊野三所権現」で、景行天皇46年に当所に初めて顕現したのち紀州熊野に鎮座したという言い伝えのあることを紹介しています。実際のところは寺社類集の考察の通り、当社は紀州熊野権現から勧請したもので、勧請の年ももっと後世のことだと思います。『船井郡神社誌』には嘉元二年(1304年)の勧請と記載されています。境内には神宮寺の王子山神道寺をはじめとして、十二所権現、両所権現、不動明王堂、行者堂など、数多くの祠や堂宇が記載されていて、神仏混淆の修験の道場として栄えていた様子がうかがえます。今でも境内に残っている宝篋印塔は鎌倉時代の作と考えられており、古くに開基された寺社であることは間違いありません。もう一社は「産土 轟大明神」で、産土とあるように熊崎村の鎮守として祀られていたことがわかります。また、末社として奥院社、柊社の二社が記載されています。なお、『船井郡神社誌』には、都々古和気神社が中古より登々呂伎大明神とも称していたという記載があります。

 さて、ここからは全くの想像になるのですが、当社の由緒が複雑になった原因は明治時代の廃仏毀釈の嵐の中で、権現や明神といった仏教色の強い要素を徹底的に排斥した結果なのではないかと思われます。その中で熊野三所権現の神道寺をはじめ多くの堂宇が廃寺となり、熊野三所権現そのものも名前を淡路神社と変えて境内社へ、轟大明神も明神号を廃して元の社名に復したか、あるいは、轟大明神とは別に祀られていた都々古和気神社の社名を借りて現在へ至ったものと思われます。ご祭神についても、元から轟大明神は天手力男命を祀っており、社名が変わった後もそのまま継承したのではないでしょうか。

 所々苔むした古い石段を登った先の明るい境内地。本殿を挟んで左右に、八幡宮・柊神社・奥津比古神社・市杵島姫神社の小祠、天満宮・稲荷神社・西宮神社・淡路神社の小祠がありました。本殿の奥には神宮寺や宿坊の趾、古い宝篋印塔などが残っています。都々古和気神社では現在でも不動堂が残っていて、真言宗醍醐派の修験者が導師となり、毎年三月に大護摩・火渡りの儀式が行われるそうです。神仏混淆のかつての姿が今なお残っている素晴らしい神社です。

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都々古和気神社の鳥居
都々古和気神社の鳥居
 
船井郡西国三十三所霊場
神道寺は船井郡西国三十三所霊場の一つだった
 
都々古和気神社の石段
所々苔むした石段
 
境内社1
天満宮・稲荷神社・西宮神社・淡路神社
 
境内社2
八幡宮・柊神社・奥津比古神社・市杵島姫神社
 
境内の手水舎
境内の手水舎
 
本殿覆屋
本殿覆屋
 
不動堂
不動堂 毎年お堂の前で大護摩・火渡りの儀式が行われる
 
不動滝
不動滝 お堂の下から流れ落ちている
 
清浄殿の宝篋印塔
清浄殿跡の宝篋印塔 室町期の作と伝えられている
 
御寿以殿の宝篋印塔
御寿以殿跡の宝篋印塔 鎌倉期のものと推定されている
 

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