熊野神社(園部町黒田)
園部町黒田の熊野神社です。黒田岩谷と呼ばれる谷の奥に鎮座しています。祭神は須佐男命。創祀の年代はわかっていませんが、『神社明細帳』によると、天文四年(1535年)に新たに社殿を創立し産神を勧請したと伝えられています。『船井郡神社誌』では創祀について「一に天文四年というがそれよりも古いであろう」と推測していますが、もともとは鎮守社となるよりずっと以前、中世前期の熊野信仰の広がりと共に勧請されたものなのかもしれません。
桑田郡小川郷西楽寺に所蔵されていた西楽寺一切経のなかの「十一思想念如来経」の奥書に、「仁安元年(1166年)歳は丙戌に次る十一月廿四日、棚波滝にて書写し了ぬ。執筆は船井郷黒田谷別所の住僧精範智妙房なり」と書かれてあります。ここにある棚波滝は、現在、京丹波町市森にある琴滝のことと考えられており、古くから山野修行の霊地であったことが伺いしれます。書写を行った精範智妙房の居住していた黒田谷別所の所在地は不明ですが、別所とは、本寺を離れて、聖(ヒジリ)と呼ばれる宗教者が居住し宗教生活を行う施設のことを言い、精範もそうした聖の一人であったと思われます。黒田谷別所は、棚波滝などで山野修行を行う宗教者の活動拠点の一つになっていたと思われますが、『図説 園部の歴史』では熊野神社と黒田谷別所の関係について「(天文四年)以前の熊野神社の様相は不明であるが、同社勧請以前、古代よりこの地は開発され、何らかの宗教的施設を有していたと考えられている。熊野信仰の地として「黒田岩谷」の熊野神社と、山林修行の拠点である「黒田谷別所」の関連性は明確ではないが、必ずしも否定することはできない」としています。今となっては確かなことはわかりませんが、黒田岩谷と黒田谷別所に関連があるのであれば、熊野神社の創祀はかなり古くまでさかのぼることができそうです。
熊野神社のある黒田集落の背後の山には、代々森氏が居城したと伝わる黒田城が存在していました。明智光秀の丹波侵攻によって落城したとされていますが、かつては園部に存在した中世城郭の中でも他を圧倒する規模を誇っていたようです。熊野神社は黒田城主森氏の崇敬が篤かったと伝えられており、当地における聖や熊野先達の有力な檀那としてその活動を保護したものと思われます。
観景寺の脇から山道に入り、薄暗い杉林に敷き詰められた長い石段を進むと社殿があります。鬱蒼とした木々の中に建つ静謐な雰囲気の神社でした。参道入り口の鳥居の先に愛宕社、境内には不明の小祠が並んで祀られていました。