春日神社(園部町小山東町)
園部町小山東町の春日神社です。祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の春日四神。 江戸時代の書物である『寺社類集』に「小山村 産神 春日大明神」とあり、今でも小山東町・小山西町の鎮守として変わらず崇敬されています。
『船井郡神社誌』によると、天喜二年(1054年)に丹波介 藤原兼重の創祀と伝えられています。 中世の丹波は都に近いこともあって中央で権勢を振るった藤原氏の領する荘園が発展した地域でした。中でも野口牧は現在の亀岡市本梅町あたりから園部町西本梅地域を中心とした荘園で、藤原道長の私領として広大な面積を有していました。後に長講堂領(後白河院法華堂)の一部として天皇家に伝領されますが、貞応元年(1222年)の北条時房書下に「後白河院法華堂領丹波国野口御庄内小山村」とあり、中世 小山村が野口荘に属していたことが伺い知れます。 園部町に数多く祀られている春日神社も荘園の鎮守として藤原氏が自らの氏神を祀ったのがその起源と考えられ、当社が勧請されたのも社伝にあるように藤原氏との関係によるものと思われます。
社伝によると当社はもともと徳雲寺近くの塩田山に鎮座しており、中世には塩田宮とも呼ばれていたようです。船井郡の式内社 嶋物部神社は古代の志麻郷内に所在していたと考えられており、現在では八木町美里に鎮座する荒井神社がその候補として有力視されています。これに対して、志麻郷の北端を小山村付近とみなし当社を嶋物部神社に比定する説もあるようです。真偽のほどは不明ですが、旧社地の塩田山付近は古墳も多く古くから開けた土地だったことは確かです。それが式内社であったかどうかはともかくとして、おそらく春日神が勧請される以前より、その前身となるような祭祀は既に行われていたのではないでしょうか。その後、ずっと時代は下って天和三年(1683年)に現在地へ遷座され今に至ります。
もう一つ当社について特筆すべき点は善願寺との関係です。善願寺は平安時代から中世末にかけて栄えた天台宗寺院で、内林・木崎・曽我谷・小山にまたがる善願寺山西麓の広範な地域を寺域にもつ大寺院だったようです。口碑によると七堂伽藍を構えていたといいますが、明智光秀の丹波侵攻の際に滅亡し、戦火の中に消えていったと言われています。現在は跡地を訪れてもびっくりするくらい何の痕跡も残っていませんが、その本尊である薬師如来坐像だけは春日神社の宮寺だった釈王寺に引き継がれました。中世の当社は善願寺の執行する鎮守社だったようで、『船井郡神社誌』にも南北朝時代や室町時代に善願寺の寺僧が当社の祭祀に奉仕したことが記されていて、善願寺と深い関係にあったことが伺い知れます。
園部駅西口のすぐ目の前、京都医療科学大学へ続く坂道の手前に鳥居があり、石段を登った先に社殿があります。石段の途中にある高台には新しいお堂が建てられていて、何らかの札所だったのか「第二番 壺宝山 釈王寺」と書かれた御詠歌が掲げられていました。ただ、このお堂が釈王寺そのものかどうかはちょっとよくわかりません。他には、同じく石段の途中の脇参道に清水をたたえた小さな池と不明の小祠があり、石段上の境内には琴比羅神社、八幡宮、八阪神社、愛宕神社・大神宮・天満宮の三社相殿の小祠、大原神社、別雷神社、稲荷神社の小祠が祀られていました。