加茂神社(園部町城南町)
園部町城南町の加茂神社です。祭神は加茂別雷命。江戸時代に書かれた『寺社類集』の大村の項に、産神 加茂大明神とあり今でも地区の鎮守として変わらず崇敬されています。社伝によると創祀の年代は天文三年(1534年)で、田中肥前守信兼が旧知行地の氷上郡 加茂神社を勧請して建立したものと伝えられています。一方、鎮座地のある城南町の旧称 大村が永和二年(1376年)の北野天満宮文書中に既に見え、古くから開かれた村落であることから推して、『船井郡神社誌』では天文三年を再興の年と推測しています。それでは当社の創祀はいつ頃まで遡れるのでしょうか。もちろんはっきりしたことはわかりませんが、これに関して大村の「オオ」を古代氏族の多氏に関係づけて多氏が祀ったとする説、あるいは、神社境内の由緒書きにあるように古代の丹波に大村直(オオムラノアタイ)氏が住居していたことから、大村直氏が奉斎した神社ではないか、とする説などがあります。これらには明確な根拠があるわけではないようですが、大村に隣接して私市(キサイチ)という地名が残っていて一概に無視することも出来ません。キサイチとは私部(キサイチべ)のことで、古代部民制のもと皇后のために置かれた名代の民であり、『日本書紀』敏達天皇六年(577年)2月1日の条に「詔により日祀部と私部を置いた」とみえるのが初見となります。当地の私部にも当然それを管掌する氏族がいたはずで、それが多氏や大村直氏ではなかったか、という訳です。社名からすると当地への賀茂氏の進出を意味しているようにも思えますが、多氏や大村直氏が奉斎したとするならば、社伝にあるように、元々は別の神を祀っていたところに後世になって加茂神を勧請したということになるかと思います。そのあたりの真相は歴史に埋没してわかるべくもありませんが、いずれにせよ、鎮座地のある大村周辺は文献に現れるにしても南北朝時代、更にはずっと古代にまでその歴史を遡ることが可能で、少なくとも当社が古くからこの地で奉斎されてきた歴史ある神社であることだけは確かなことと思います。
城南町の集落の外れに鎮座。社前には水田が広がっていてのどかな雰囲気です。神社背後の山には田中河内守宗長が築いたとされる大村城がありました。宗長は足利尊氏により当地の地頭職に任じられたと伝わっていますが、社伝にある田中肥前守信兼はその子孫にあたる人物でしょうか。社頭の立派な鳥居をくぐって石段を登ったところが境内。砂利が敷き詰められていて清々しい雰囲気。本殿前には撫牛が寝そべっていて、本殿に隣接して太神宮が祀られています。『寺社類集』には加茂大明神の末社として神明社の記載がありますので、こちらのことだと思います。