一原神社(園部町曽我谷)
園部町曽我谷(そがだに)の一原神社です。祭神は伊邪那岐・伊邪那美命の両神。江戸時代に書かれた『寺社類集』の曽我谷村の項に、産神 一原大明神とあり今でも地区の鎮守として変わらず崇敬されています。『我がふるさと曽我谷』によると少なくとも応永二十五年(1418年)には既に社殿が建立されていたようで、創祀は更に古くまで遡れる可能性があります。かつては谷奥の宮ノ谷に鎮座していましたが火災で焼失、その後、参拝に便宜のよい現在地へ再建遷座されました。
ところで、一原神社は明治以降の一時期 八幡神社と名乗っていたことがあります。元々は『寺社類集』に記載のある通り一原大明神と称していたのですが、明治時代の神仏分離政策に伴って「一原大明神という名称は、元来何の神を奉祀し一原と称して建立されたのか」という詳しい調査があったようです。これは現在の我々の感覚でもわかると思いますが、信仰心とは無関係に氏神様の公的な神名など普段意識することは無く、素朴な村人にとって一原大明神は一原大明神以外の何ものでもない訳です。更に明治以前は神仏習合が当たり前の時代で、『我がふるさと曽我谷』にはその時の経緯として「ご神体は虚空蔵菩薩尊であったが、ご祭神が不明であったので宮司が大変心配されたが、幸いにも(付近の)堂山に八幡森があり、そこは古宮だったとの伝承により、それにちなんで八幡宮と答弁し、調査は無事終了した」と書かれています。調査を受ける側はさぞかし慌てたことと思います。一方、古老による昔からの口碑では伊邪那岐・伊邪那美の両命と虚空蔵尊との合祀であるとの言い伝えがあったようですが、神徳を畏れて祠の扉を開く者がなく、真偽のほどは確かめようがなかったようです。しかし、明治18年に在人(狂人)が乱行してその扉を開放してしまい、この時はじめて虚空蔵菩薩の仏像の奥に両命のご神体があることがわかり、ご祭神が伊邪那岐・伊邪那美命であることが判明しました。時代は少し下った昭和20年に社名を元の一原神社に復して現在に至ります。なお、平成21年に行われた文化遺産の調査の際には、祀られていた痕跡はあったもののご神体そのものは見つからなかったようです。時代に振り回されながら古くから奉祀してきた一原大明神に対する曽我谷の人々の信仰心と苦労が垣間見れる逸話だと思います。
かつては虚空蔵菩薩を合祀しており、現在も境内の一角に虚空蔵菩薩のお堂が建っています。この虚空蔵堂の由緒は不明のようですが、祈雨に霊験があり、また、ウナギを神使として獲ることも食べることもしないという信仰が伝わっています。『我がふるさと曽我谷』には「曽我谷のうなぎのお話」として次のような話が伝わっています。
『ある秋のこと、ものすごい大きな嵐がきて、山の谷間から水が溢れ、田んぼも一面水の中につかりました。池の水も溢れ出し、池の土手は今にも崩れそうになりました。半鐘が鳴り響き、村人たちは手に手に鍬や農具を持って田んぼや川の見回りに繰り出しました。皆が池までやって来て見たものは、「あれはなんじゃ」「うなぎやないか」 今にも崩れそうになっている土手の穴にたくさんのウナギが集まっています。その様子はまるで池の土手を守っているように見えました。「ウナギがこの土手を守ってくれているのじゃ」 人々は口々に喜び合いました。幸いそんな大嵐にも村は大きな被害もなく、元の静かな生活に戻りました。その後、村人の間では、「あのとき土手を守ってくれたウナギは神さんのお使いかもしれん」「そうや、そうに違いない。食べたらバチがあたるぞ」 そう言い出して、いつの頃からか誰もウナギを食べなくなりました。村の神社にはウナギが祀られているとも言われています。』
曽我谷の谷の入り口に鎮座。石垣が積まれ、道路から一段高いところに境内があります。砂利が敷かれ明るく清浄な雰囲気の神社です。境内社として、厳島神社、西ノ宮神社、天満宮、八幡宮が祀られています。『寺社類集』には末社として弁財天社、蛭子宮社の記載がありますが、それぞれ厳島神社、西ノ宮神社がこれにあたるものと思われます。八幡宮は現社地に元々祀られていた八幡森がその起源です。