鏡神社(園部町口司)
園部町口司の鏡神社です。祭神は伊邪那岐尊・伊邪那美尊。『船井郡神社誌』によると創祀の年代は宝亀七年(776年)で、奈良時代には既に当地に祀られていたものと伝わっています。半田川の谷筋にある口人・口司は現在は南丹市摩気地区を構成する集落の一つになっていますが、古くは南方の山向こうにあたる本梅川沿いの地域との関係が深かったようで、口司もかつては旧山陰道沿いの薮田神社(式内 志多非神社に比定)の氏地であり、鏡神社は薮田神社の末社であったと伝えられています。『船井郡神社誌』には「毎年例祭には隣村口人地区の氏神すべてここに集まり氏子供奉して祭典に奉仕する」とあり、地域の中核をなす神社であったことが伺い知れます。
社名の鏡について興味のひかれるところですが、旧園部町の広報「ふるさと探訪」というコラムには「大日如来像を鏡の背面に抽いた掛仏が鏡神社の正躰でした。また、いつのことかわかりませんが、男女二躰の彩色の木像がつくられて御正躰として祭られていました」との記述があり、御神体として祀られていた鏡にちなんだ社名、あるいは、古代においてそうした鏡造りに従事した人々により祀られた神社だったのではないか、という気もします。隣接する口人地区には「かじ切り谷」という「うばが谷」に住んでいた刀鍛冶の伝説が伝わっており、古くは製鉄や金属加工に関係深い土地だったのかもしれません。また、同じく「ふるさと探訪」には「この社の下に大きな岩があって、陰陽神のもとの本尊だと村人は口伝しています。表面はすべすべし、裏側はザラザラした男女を表現しており、古社でよく見かけるものですが、宮地内の入口を具象化する標示石です」との記載もあり、磐座として祀った岩を鏡に見立てた社名、ということも考えられるかもしれません。
もう一つ、当社には「十六羅漢像と明智光秀」と題して次のような伝説が残されています。『口丹波の伝説』に詳しいので紹介したいと思います。
『園部町口司の山の中に鏡神社がある。この社にむかしから十六羅漢の絵像が残されている。この絵像は神社の頭人の間で保存されてきたが、むかし明智光秀が丹波を平定したとき、この十六羅漢像がほしくなり、京都の聖護院の僧を使いとして求めたが、頭人たちは本物をかくしてニセ物を光秀に渡したので、実物は現在も同社に伝えられているという』
鏡神社 神宮寺の本寺であった楽音寺は本山派修験のお寺で、聖護院は言わずと知れた修験の総本山。口司には宮の森に住むという天狗のカクレミノの話も残されており、当地における修験の活動の痕跡を感じ取ることができます。
口司の集落から少し離れた南の谷奥に鎮座。参道や境内は鬱蒼とした杉林の中にあり昼なお暗く、ヒグラシの声が響き渡り、厳かで独特の雰囲気に包まれていました。参拝したのは暑さ厳しい夏の午後、手水舎の清水の冷たさが染み入ります。参道の突き当りに不明の社があり、石段を登った先の境内には春日神社、宇賀神社、天満宮、稲荷神社が一つ屋根の下に。その傍らには鏡のような形をした石が意味ありげに祀られていました。