吉備津神社(園部町口人)
園部町口人の吉備津神社です。祭神は吉備津彦命。『船井郡神社誌』によると創祀の年代は不詳ながら宝徳ニ年(1450年)に再建とあり、古くから当地(下口人地区)に祀られていたことがわかります。なお、隣接する中口人地区に鎮座する春日神社の創建も当社の再建と同年代の文明二年(1470年)と伝わっています。中世後期は村落や氏神の祭祀を担った宮座が伸張した時代でもありますので、下口人・中口人の両村においても、この時代に力をつけた集落の人々によって神社の再建や創祀が行われ、今日見るような村の鎮守社として体裁が整えられていったものと思われます。
吉備津彦命は丹波では比較的珍しい御祭神で、崇神天皇の御代に四道将軍の一人として山陽道に派遣され、吉備国(現在の岡山県を中心とした国)の総鎮守 吉備津神社に祀られている神として有名です。当地に吉備津彦命が祀られた経緯は不明で、山陽道に派遣された神がなぜ丹波の内陸部に?と思われるかもしれませんが、当地のすぐ南の本梅地域には古代の山陰道、後の丹波路が通っています。丹波路は播磨路とも呼ばれ、丹波国府と播磨国府を結ぶ道として古くから利用されてきました。内陸部の園部と瀬戸内とは一見遠いように見えて古代山陰道・丹波路を介した地域的な繋がりがある訳です。これは古代においても同様で、園部で発掘された古墳時代初期の前方後円墳である黒田古墳には、出現期古墳としては発達した前方部、石材を多用する棺床構造など瀬戸内系墓制の影響が見られます。園部には前期古墳としては口丹波地域最大の垣内古墳があり、これは当地域が海上交通の拠点であった丹後とヤマトを結ぶ交通の要衝として重視された結果と解釈されていますが、そうした南北ルートだけでなく、古代山陰道や播磨路、更には園部中心部を通過して若狭街道を利用し北陸へと繋がる東西ルートがあったことも、この地域が重視された要因の一つでありました。当地に吉備津彦命が祀られた時期が古代まで遡れるかどうかは疑問ですが、瀬戸内地域は遠いようで近いのが丹波なのです。なお、園部の竹井に鎮座する式内 摩氣神社の神は大和から勧請されたとも言われており、口人地区の西の山を越す神坂峠はその際に摩気神が通った道とも伝えられています。伝説の真偽はともかくとして、ヤマトと瀬戸内が交錯する当地は、交通の要衝にあった園部地域の特色をよく表しているように思えます。
下口人の集落の入り口、山から流れる谷川に隣接して境内があります。社前には水田が広がっていて、青々とした稲が風にたなびいていました。境内には樹齢300年とも伝わる大杉があって天を衝くような姿の立派な巨木だったそうですが、2年ほど前に伐採されて今ではその姿を見ることはできません。近所の方に伺ったところ、内部はほとんどが空洞になっていて、いつ倒れてもおかしくない状態だったようです。境内には社名は不明ですが、覆屋を持つ立派な境内社、他にも小さな祠が3つ並んで祀られていました。