慈久神社(園部町船岡)

園部町船岡の慈久神社

 

 園部町船岡の慈久神社です。祭神は応神天皇。『船井郡神社誌』によると、寛永十四年(1637年)に火災に遭い社殿その他ことごとく焼失したとのことで、創祀など詳しい由緒は不明です。翌年の寛永十五年再建。江戸時代に記された『寺社類集』の松尾村の項に「産神 慈久大明神」とあり、古くから松尾地区の鎮守として祀られてきました。なお、隣接する藁無地区にも当社と漢字は異なりますが読みが同じ治宮神社があり、祭神も例祭日も共通しています。古記録等が残っていないためはっきりしたことは不明ですが、両社とも同じ性格をもった兄弟社、あるいは一方からの勧請社なのだろうと思います。

 『寺社類集』の当社の項目には「末社并堂舎」として、本殿や拝殿の他に、神明宮社、愛宕山社、伝教大師堂、元三大師堂、奥院(虚空蔵)、縁松寺観音堂が記されていて、十間四方の小さな境内に多くの末社や堂宇がひしめいていた様子が伺えます。伝教大師や元三大師への信仰からすると、過去に天台宗・叡山の影響が強かった時代があったのでしょうか。神仏分離後の現在でも当時の雰囲気が何となく残っていて、境内には今でもお堂が二つ並んで建っています。一方は『寺社類集』にも記載がある観音堂、もう一方は準提尊(准胝)を祀る準提堂なのですが、この準提堂について次のような由緒が伝わっています。『口丹波の伝説』に詳しいので引用したいと思います。

 「むかし越前敦賀に良白という知徳兼備の和尚さんが、ことのほか準提尊を信仰していた。良白さんは準提尊にあやかって難民を救い、悪病を退散させようと祈願して、満願の日に準提尊像を自作して肩に背負い、諸国めぐりに旅立った。寛政二年(1790年)に良白は丹波に入り、このお堂(※ 観音堂のこと)に一夜の宿を求めた。(中略)良白さんがお堂に泊まった数日後の夜、目の前に光り輝いた仏が現われ「お前はこの土地に留まって、仏の道を説き教えて、民を救うべし」とのお告げがあった。土地人は大変喜び、良白さんが背負ってきた準提尊をお祀りしたのがこのお堂である」

 松尾地区の集落の背後、集落から続く石段を登った小高い丘の上に境内があります。本殿の正面に短い石段がありますが、その隣にももう一つ石段が残されています。元々は本殿の隣に並ぶようにして何らかの建物(お堂でしょうか)があったものと思われます。境内社として本殿向かって左手に八幡神社、愛宕神社の小祠、右手に大神宮、天満宮の小祠、本殿裏手の斜面を登った先に虚空蔵を祀った小祠がありました。

(2022.12.29 追記)

 『大堰の流れ』のよると理由は不明ながら明治六年の政府への申請時に社名を「治宮神社」として報告したようです。しかしながら、江戸時代に記された『寺社類集』、古い石灯篭や棟札には慈久大明神とあり、発音は同じでも「治宮」を「慈久」に変更したいとの氏子の総意で昭和五十七年に元の名に復したとのことです。

photos

集落から続く石段の先に鳥居と境内
集落から続く石段の先に鳥居と境内
 
神社扁額
神社扁額
 
2つの石段
本殿へ続く石段 隣にも石段が残されている
 
小さくまとまった境内
小さくまとまった境内
 
観音堂と準提堂
観音堂と準提堂
 
大師像
大師様だろうか
 
八幡神社(左)と愛宕神社(右)
八幡神社(左)と愛宕神社(右)
 
大神宮(右)と天満宮(左)
大神宮(右)と天満宮(左)
 
本殿背後にある急な石段
本殿背後にある急な石段
 
虚空蔵を祀る小祠
虚空蔵を祀る小祠
 

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