水神さん(園部町船岡)
園部町船岡の水神さんです。近くにお住いの方にお伺いしたところ「すいじんさん」とのこと。田に水を配る水路のほとりに建つ小さな祠です。この場所に祀られている経緯や由緒などはわかりませんでしたが、ここ船岡は大堰川に接して開けた集落で、古くから水とは深い関係があり、「蛇釜と三平田」「かなご岩と継岩」など水にまつわる伝説も多く残されています。
大堰川の水運は丹波の木材を京へ輸送するのに利用され、古くは長岡京や平安京造営のための材木が筏流しで運ばれたとされています。江戸時代に角倉了以(すみのくらりょうい)が急峻な保津峡を開削して木材だけでなく舟を通せるようになると大堰川の水運は更に発展し、ここ船岡(江戸時代には上河内村)には舟着場が設けられ、舟運の拠点として賑わうこととなります。開削の功績から大堰川の舟運は角倉家が管理を行い、使用される舟は角倉家より預かり受ける形式になっていたようです。上河内村には四艘の舟があり主に穀物を取り扱っていたようで、周辺の村より集められた米を最大20石(約3t)積載して運んでいました。
以上のように、川筋の集落に大きな利益をもたらした大堰川ですが、時には周辺の村々を巻き込む水争いの舞台にもなりました。明和八年(1771年)、上河内村が新たな井堰を設けたことをきっかけに下流域の24ヵ村が水量の減少を懸念して訴訟にまで発展。この争論は8年間にも及び一旦は示談となりますが、寛政十二年(1800年)に新堰設置をめぐって再び争論が発生、文政元年(1818年)にようやく落着するなど、水をめぐる争いは絶えませんでした。
各種用水が整備され、蛇口をひねれば水が出る現在では感覚的に理解しにくくなっていますが、各地の水争いの記録を読むと、水を巡る問題はまさに死活問題であり、水に対する信仰もまた非常にシリアスなものであったと感じます。水路のほとりに祀られた小さな水の神ですが、古くから大堰川と共に生きてきた船岡を象徴するような祠であることは確かだと思います。