月読神社(園部町船岡)
園部町船岡の月読神社です。祭神は月夜見命。『船井郡神社誌』によると、創建は貞観十七年(875年) 江戸時代に記された『寺社類集』の上河内村の項に「産神 月読大明神」とあり、いまでも船岡地区の鎮守として変わらず崇敬されています。現在の本殿は江戸時代の文化十二年(1815年)に建て替えられたものになりますが、大堰川水運で栄えた上河内村の鎮守らしく非常に立派な造りです。かつては宮寺として天台宗の円明院神宮寺がありました。当社は横尾峠を挟んで隣接する志和賀の月読社(式内 志波加神社)とは兄弟社といわれ、『園部町における民俗信仰伝承』には以下のような伝承が記されています。
「船岡藁無から志和賀へ抜ける横尾峠は「御幸道」とよばれ、月読神社の神様が志和賀の月読社へお通いになる道であると言われている。船岡の月読さんと志和賀の月読さんとは兄弟神で、大変仲が良く交際も深かった。船岡の月読社の使わしめは兎で、志和賀の月読社の使わしめは猿である。猿は峠道を通り両社の月読社をとりもったという。その猿の通り道を誰かが塞ぐとやかましいので、山に入った村人は「猿の通る道」だけは決して邪魔をしなかった。従って船岡では兎や猿を飼ったり、絵に書くことも遠慮している」
かつての上河内村は大堰川と共にあった集落だけあって水に関する伝説が多く残されており、当社も川と接した場所に境内があって大堰川との深い関係が伺えます。例えば『園部101年記念誌 翼』には以下のような大堰川の淵に住む大蛇の伝説が記されています。
「蛇釜は月読神社の東方にあたり、水量の多い時代には恐ろしく渦巻いていたそうです。昔々、大堰川の蛇釜には大きな蛇が住んでおり、毎年大暴れして、村の人たちは大そう苦しめられました。いつの頃からか、月読神社には人身御供を献ずる慣わしがうまれ、村の娘は毎年怯え深い悲しみの中にありました。ある年、三平という勇敢な若者がたまりかねてこの大蛇退治を計画し、幾度も挑みついに退治してしまいました。しかし時には大暴れするこの大蛇も蛇釜の主であり、霊力の強いこの大蛇を贖い、悪霊から月読神社を守るために、その後、大きな綱をつくって鳥居につけるようになった、と言い伝えられています。村の者は、その三平に感謝し、褒美に良田が与えられました。その田を昔は”三平田”と呼び、月読神社の東側にある「溝ノ向」で、今は河原になってます」
月読命を主祭神とする神社は全国的にもそれほど多くはないのですが、大井神社や小川月神社など、亀岡市や南丹市の大堰川筋には月読命を祀る神社がいくつか分布しています。亀岡市の大井神社には月読命が鯉に乗り大堰川を遡ってこられた、とする社伝が残されていますが、これらの月読命を祀る神社は元は大堰川下流の山城国式内名神大社「葛野坐月読神社」からの勧請と考えられています。葛野の月読神社と松尾大社との深い関係から新修亀岡市史等では同じく大堰川に沿って分布する松尾神を祀る神社と合わせて「松尾系神社」と分類していますが、これらは葛野を拠点として大堰川上流域の開発を進めた秦氏の足跡を伝えるものとする説が有力です。船岡の当社に関しては大井神社のような鎮座にまつわる直接的な伝承は残っていませんが、船岡と大堰川の関係性やその立地を考えると、やはり大井神社や小川月神社と同系統の神社と言えるのではないでしょうか。一般的に神社の境内は浸水害に強い場所であることが多いのですが当社はその立地上何回も水害にあっており、かえってこの場所(川べり)への強いこだわりが感じられます。釜淵の大蛇に関しても、月読神社に人身御供を献じているということは、当社の神が大堰川の神そのもの、あるいは、川と集落の二つの空間を繋ぐ境の神であったことを示しているように思えます。今となってはハッキリしたことは不明ですが、少なくとも大堰川と関係深い、大堰川を介した水上交通・水利開拓の歴史と共にあった神社、ということだけは確かなのではないでしょうか。
船岡の集落の外れ、大堰川に接して境内があります。現在は大きな堤防に守られていますが、これは昭和二十八年の水害後につくられたもので、それまでは川まで田畠などが続いていたようです。『寺社類集』によると、江戸時代には境内末社として若宮社・稲荷宮社・多賀宮社・住吉宮社・春日宮社・太神宮社があり、上河内村内に登利御前森社・奥御前社・八幡宮森社・恵比寿森社・才神森社・天神宮森社などがあったようです。これらのうち、境内末社として記されたものが本殿の左右に、村内にあった社は少し立派な小祠として祀られています。