寒川神社(神奈川県高座郡寒川町宮山)

神奈川県高座郡寒川町の寒川神社

 

 寒川神社は延喜式記載の相模国高座郡寒川神社に比定されている式内社・相模国一之宮で、相模川を約7kmさかのぼった左岸の低台地上に鎮座しています。創祀の年代はわかっていませんが相当古くから信仰されていたことは確かで、初めて史書に登場するのは承和十三年(846年)のこと。無位の相模国寒川神に従五位下を授けるという記述が続日本後紀に見えます。寒川神はその後も度々神階を進め、916年には正四位上に、また延喜式神名帳では相模国で唯一の名神大社に列せられました。現在は寒川比古命・寒川比女命を祀る寒川神社ですが祭神については昔から諸説あり一定していません。寒川神、八幡神・応神天皇、澤女神、菊理媛神、素盞嗚命・稲田姫命、大己貴命、寒川比古命・寒川比女命と顔ぶれも多彩です。それぞれの祭神について『式内社調査報告』の中で簡潔に考察されているので、引用してみたいと思います。

「寒川神説は、専ら平安・鎌倉時代に用いられている。換言すれば、平安・鎌倉時代はこの説しか存在しなかったのである。八幡・応神天皇説が出現するのは、南北朝時代、具体的に言えば『一宮記』『諸社根元記』あたりからである。つまり、中世から近世にかけては、八幡信仰が武神的性格をおび、武人をはじめ一般民衆に広まっていたが、それに乗じて恐らく吉田家等によってたてられた説と考えられる。いずれにせよ八幡・応神天皇説は、南北朝時代より明治初年までの長きにわたって主座を占めた。澤女神、菊理媛神、素盞嗚命・稲田姫命、大己貴命説は、その間をぬって、わずかにとなえられたにすぎない。そして、寒川比古命・寒川比女命説が成立するのは、明治七年の『特選神名牒』あたりからである。すなわち、皇太神宮儀式帳に所載の牟瀰神社の祭神である寒川比古命・寒川比女命と当社の社名「寒川」とがたまたま一致していたので、それを採用したにすぎないのである(式内社研究會・編 『式内社調査報告 第十一巻』 昭和51年 皇學館大學出版部)」

 こうしてみると寒川比古命・寒川比女命が祭神というのは比較的最近になってとなえられた新説で、しかもやや根拠薄という感じが否めません。しかし、明治九年、教部省は『特選神名牒』の説を正式に採用し、それ以降はこの二神が寒川神社の祭神とされて今日に至っています。『式内社調査報告』は以上の考察の結論として「特選神名牒が平安・鎌倉時代にわたって用いられた寒川神説を何故に無視したのかは知らない。が、わたくしとしては寒川神説が無理なく最も的を得ているように思う」と結んでいます。

 では、寒川神とはいったいどのような性格の神なのでしょうか。これについては寒川という名前の語源にヒントがあるようです。『相模の古社』には柳田国男氏の話として次のような説が述べられています。

「話がたまたま寒川神社のことに移ると、柳田先生は「寒川のサムという語の古い意味は、清いとか、つめたいとかいうことである。またカハという語も、むかしは今日の河川の意味ではなくて、泉とか、池とかのことをいった。だから寒川神社には、そのような泉があるのではないか」という意味のことを話された。(菱沼 勇・梅田義彦 『相模の古社』 昭和46年 学生社)」

 そして実際、寒川神社の本殿背後には難波の小池と言われる湧水があり古来から霊験豊かな神池として崇められてきました。大正時代に付近に工場ができてボーリングをやった影響で、水がかなり細くなってしまったという記述が『相模の古社』に見えますが、それまではかなりの水量の湧水があったようです。現在でこそ開発しつくされた感のある神奈川県ですが、古代は今とはがらっと違った風景だったはずです。古相模湾はかつては内陸深くまで湾入し、寒川神社のすぐ近くまで海が迫っていたと考えられています。周囲を流れる小出川や目久尻川も直接海に注ぎ、その間には未開の沼沢地が広がっていました。
 
 どんな人達がこの未開の原野を開拓していったのかはわかりませんが、水量豊富な湧水が与えた恩恵は今では想像もつかないくらい大きかったことだろうと思います。遠い昔にこの地に至った人々は、この湧水を中心に集落を形成し、周囲を拓いていったのでしょう。寒川神社のそもそもの起源は、そうした人々がこの豊かな湧水を神聖視して祭祀の対象としたことにあると考えられています。とすると寒川神とは湧水の神、そして、この地方の開拓神としての性格をもっている神と言えそうです。『相模の古社』では、当社が歴史時代に至っても神階昇格を続け相模国一之宮の地位をかためるにまで至ったことから、「草創のころから勢力のある氏族ないし豪族が、この神社を信仰の中心とあおぎ、崇敬しつづけてきたという事実があったに相違ない」とし、その氏族を初期の相武国(相模国の前身)の国造にあてています。武士の世の中になっても当社に対する崇敬は変わらず、室町末期の文書には「社領東石川、南荒海、西相模川、北間澤橋切也」とあって相当広大な社領を有し勢力を誇っていたことが伺えます。しばしば戦火に罹災するもその都度再建され、明治四年に国幣中社、戦後は神社本庁の別表神社に指定されて今日に至っています。

 参拝したのは4月の休日。第一駐車場はすでに満車だったので第二駐車場に駐車。現在では八方除のご利益で知られる寒川神社だけあって多くの参拝者で賑わっていました。寒川神社の一の鳥居は、境内を南へずっと下がったJR相模線の踏み切付近にあります。そこから一方通行の車道になっている参道を北上すると見えてくるのが巨大な二の鳥居。この辺り参道の両脇は桜並木になっていて、県下では桜の名所として知られている所です。太鼓橋の脇を通って三の鳥居へ。最後の鳥居をくぐると緑濃い参道が楼門まで続いています。境内末社の宮山神社はかつて宮山地区に鎮座していた7つの小祠(琴平社、八劍社、雷社、若宮八幡社、祢岐志社、稲荷社、三峰社)を合祀したもの。本殿裏手には境内末社の御祖神社が鎮座。
 
 なお、当社の起源となった難波の小池のある社殿後背地は長らく禁足地とされてきましたが、現在は神苑として整備され一般公開されています。神苑は神社で祈祷を受けた人のみ入ることができますので、祈祷を受けた際には立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

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寒川神社 一ノ鳥居
寒川神社 一ノ鳥居
 
寒川神社 二ノ鳥居
寒川神社 二ノ鳥居
 
三ノ鳥居から続く参道
三ノ鳥居から続く参道
 
楼門
楼門
 
寒川神社 本殿
寒川神社 本殿
 
多くの参拝者が訪れる
多くの参拝者が訪れる
 
寒川神社の狛犬 厳しい横顔
寒川神社の狛犬 厳しい横顔
 
末社 宮山神社
末社 宮山神社
 
末社 御祖神社
末社 御祖神社
 

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