旧版地図で見る半田・大西・宍人の神社・地蔵・石神
上図は明治45年発行の旧版1/20000地形図です。最も西側に園部川の本流があり、その支流である本梅川が中央に、東側に半田川が流れています。それぞれの河川がつくった平地に集落と水田が広がり、その間に丘陵性の山地があって地区の境となっています。それぞれの河川に沿って見てみると、江戸時代には北流する半田川に沿って、東岸に東半田村が、西岸の上流に南半田村、下流に西半田村がありました。赤丸で囲った場所に鎮座するのが、半田地区の鎮守の大森神社です。江戸時代に編纂された『寺社類集』の東半田村の項に「産神 大森大明神」と記載があり、古くから村の氏神として崇敬されてきました。西半田村、南半田村には産土の記載がありませんが、同じく大森大明神を鎮守としていたものと思われます。本梅川に沿っては、上流の東岸に大坪村が、西岸に西山村がありました。二村とも八幡宮を鎮守としていて、再建年も同時代、また、同じような由緒を伝えています。両村は明治9年に合併して大西村となっていますが、以前より繋がりの深い村同士だったのだと思います。本梅川の更に上流にあったのが宍人村です。北野社領船井庄の内の一村で、中世には船井庄の代官であった小畠氏が当地を拠点としていました。集落には今でも小畠氏の居城「宍人館」が往時の姿そのままに遺構として残っています。集落の北の外れには氏神の菅原神社が鎮座していますが、菅公を祀る天神宮が宍人の鎮守とされているのも、当地が中世に北野社と深い関係にあったためと思われます。江戸時代、南半田村は亀山藩領で、他は園部藩に属していました。
園部川流域の船阪、仁江、竹井を含め、地図に描かれている地域は摩気地区と呼ばれており、その名の通り、昔から竹井に鎮座する式内 摩気神社と関係が深い地域です。摩気神社は丹波国船井郡唯一の名神大社で、『寺社類集』にも「船井郡第一之社也」とあって、郡内有数の古社として広く信仰をあつめてきました。これらの地域は元々は摩気神社の氏地であったとされていて、中世以降、村ごとに新たに氏神を祀るようになったという共通の由緒を伝えています。現在でも摩気神社を地域の総鎮守とし、摩気神社の神幸祭では信仰圏の各集落が参加して古くから定められた諸役を担っています。
摩気神社のご祭神は大御饌津彦命。御饌は神に供える食べ物のことで、大御饌津彦は水を司り、農業・食物を主宰する農耕神とされています。摩気神社の摩気(マケ)も御饌(ミケ)からの転訛と考えられていますが、当地域にはこれに関連する地名が多く、鎮座地の竹井は「食饌斎」、仁江は「新饗」、宍人は食べ物の調理に関係する職業部である「宍人部」がその由来とも考えられています。神幸祭では宍人の氏子より清酒や新穀等を神前に供える「宍人献饌の儀」と称される神事が執り行われますが、これも古く摩気神への供膳に宍人の人々が関わってきた名残なのかもしれません。なお、かつては宍人村を上完(宍に同じ)人、西山村を中完人、大坪村を下完人とも言っていたようですので、古くは本梅川に沿った広い範囲を宍人と呼んでいたものと思われます。
園部川、本梅川、半田川の谷筋は山地によって区切られていますが、流域ごとに孤立していた訳ではなく、それぞれの地域は宇野峠や木折峠といった峠を介して結ばれていました。特に高山の麓にあって、宍人と半田を繋ぐ神坂峠には摩気神が大和から勧請された際に通った道であるとする伝承もあり、峠の途中には「米かみ岩」という興味深い伝説も残されています。半田地区は摩気神社から少し離れているようにも見えますが、峠を介して意外と距離が近く、やはり古くから摩気神と関係深い土地だったのでしょう。現在、摩気神社の周辺、また、大西や宍人には目立った遺跡は発見されていませんが、半田地区には安谷古墳群や中殿古墳群といった多くの古墳が発見されています。古代、摩気神社を奉斎した人々との関係は不明ですが、この地が古くから開けた土地だったことは確かだと思われます。なお、同じ半田川流域でも半田に隣接する口人地区や、更に上流の口司地区は、南の山を越えた古山陰道沿いの地域との繋がりが深く、元々は摩気神社ではなく薮田神社(式内 志多非神社に比定)の氏地でした。地図を見ると少し不思議な感じがしますが、ここが摩気神社と薮田神社の信仰圏の境となっていたようです。
南丹市の地蔵・石神75(園部町半田)
横田から半田へ南下する車道沿いに祀られていた地蔵祠です。(旧版地図 A位置) この付近の西側丘陵上には弥生時代後期から奈良時代にかけての住居跡(半田遺跡)が確認されています。また、同じ丘陵上には桜池古墳群があり、その古墳を利用した城郭と考えられている中世の城館(半田館跡)もあって、弥生時代から中世までの長期に及ぶ生活の痕跡が残されています。
南丹市の地蔵・石神76(園部町半田)
明治時代の廃仏棄釈で廃寺になったと言われていますが、半田にはかつて林泉寺という曹洞宗の寺院があったようです。江戸時代に編纂された『寺社類集』の東半田村の項には禅宗小山村徳雲寺末として東谷山林泉寺(慶長十五年開基)が記されており、また、林泉寺支配地として毘沙門堂の記載もあります。現在、寺そのものの遺構は残っていませんが、地蔵祠と住職の卵塔、また、毘沙門堂が残されています。(旧版地図 B位置) 地蔵堂の御詠歌はかすれて読めなくなっていましたが、毘沙門堂には次の御詠歌が掲げられていました。
「身の内の 悪き非法を 打ち捨て 皆 吉兆を 望み祈れよ」
南丹市の地蔵・石神77(園部町半田)
半田川沿いの集落には東部六地蔵参りという、満中忌を迎えた家族が、初盆の地蔵盆に半田、口人、口司の合わせて六ケ所のお地蔵様にお参りする風習があります。そのうちの一か所がこちらの地蔵祠です。(旧版地図 C位置) 祠の裏手は墓地になっていて、地蔵祠の隣にも小さな祠が祀られています。近くで農作業をされていた方に伺ったのですが、「この辺のお仲間(株組織)で祀っているものだが、自分は地区が違うので何を祀っているのかわからない」とのことでした。近所に住んでいても隣の地区が何を祀っているのか知らないというのは、この手の小祠あるあるな気がします。主祭神であるかは不明ですが、祠の中には恵比寿様の神像が置かれていました。
南丹市の地蔵・石神78(園部町半田)
半田地区の南部にある小字安谷には横穴式石室を持つ安谷古墳群(1~14号)が存在しています。ここには横穴式石室を背負うようにして建てられた少し珍しい地蔵祠があります。(旧版地図 D位置) 古くは石室内に地蔵を直接安置していたのでしょうか。
南丹市の地蔵・石神79(園部町大西)
大西にある安生寺というお寺の敷地に祀られていた石仏です。平成十年九月改修という石碑が建てられていますので、比較的近年にお寺の墓地等から集められたものかと思います。五輪塔などが綺麗な状態で残っています。(旧版地図 F位置) 安生寺は創建年は不明ながら、天平勝宝元年(749年)に西山村の岡の壇という場所に移り、本尊の子安地蔵尊も天平二年(730年)行基菩薩作とも伝わっています。天明元年(1781年)再建。大正時代までは僧や尼僧が管理していたようですが、現在は無住のようです。昭和六十二年に改築され現在に至っています。
米かみ岩(園部町宍人)
半田には「米かみ岩」という伝説があり、今も神坂峠の宍人側の旧道沿いに物語の舞台となった米かみ岩がひっそりと残されています。(旧版地図 E位置) この話は『口丹波の伝説』『園部101年記念誌 「翼」』など、色んな書物に収録されていますが、代表して『石造物調査』記載の内容を以下に引用したいと思います。
「宍人から半田に出る神坂峠旧道の中腹に大岩が杉木立の中に横たわっている。この大岩には次の様な伝承が伝えられている。「むかし、園部の殿様小出氏の年貢の取り立てがきびしく百姓たちは大変苦しんでいた。何とかして少なくしたいと百姓たちは話し合った時、一人の百姓が「生きるか死ぬかの問題だ、私がお殿様に直訴しよう」と申し出た。村人たちは大喜び。彼は食料の焼き米を袋に入れて園部へ向かった。途中神坂峠にかかり、汗をふこうと大岩に腰をおろし一休みし、腰から焼き米を出してポリポリ食べながら考えた。「いやまてよ、うっかり訴え出たら、わしの首がバッサリ切られるだろう。命あっての物種だ、あぶない、あぶない。やっぱり止めておこう」と考え、大急ぎで岩からおりて一目散に家に向かって引き返したという」 それから、この岩を「米かみ岩」と呼んでいる」
生きるか死ぬかの一大事からのこの展開、思わず吹き出しそうになるような話です。そもそも半田から園部のお城に行くなら神坂峠を越す必要もありません。この話は少し形を変えて園部町若森にも伝わっていて、おそらく、元々は「米かみ岩」にまつわる共通の伝承が広く当地周辺に伝わっていたものと思われます。
それでは、この伝説の基層となっている話とはどのようなものだったのでしょうか。元より確かなことはわかりませんが、実は、「米かみ岩」「米かみ石」と呼ばれる巨石は全国的にも散見され、多くは「岩がお米を食べる」という伝承を伴っており、岩石に神が宿るという岩石信仰に由来しているものと考えられています。当地の米かみ岩が地域でも目立った山容の高山の麓、神坂峠の道中にあるのも示唆的で、なんとなく『播磨国風土記』の粒丘の話を思い出させます。渡来神の天日槍命と地主神の葦原志拳乎命が国土を巡って争い、先に国土を占めようと思った葦原志拳乎命が粒丘に至り、そこで食事をする。その時、口から零れ落ちた飯粒が地名の由来となった、という話ですが、ここでは”国占め”と”飡したまう”ことが象徴的に語られています。解釈は様々ですが、古代には国の王(神)がその地で収穫された飯を食し、また、それによりその土地の支配権を確認するという祭祀の形態があったとも考えられています。(国立歴史民俗博物館研究報告 第179集「国占め」神話の歴史的前提) 米かみ岩の伝説の中に当地の支配者であった園部の殿様が出てくるのも興味深い点で、非常に古い時代に、神坂峠や高山の磐座で神に食物を捧げた農耕祭祀が行われていたのではないかと、そんな気もしています。百姓を途中で立ち去らせたのも、本来はこの地の支配者である王(神)の神威によるものであったはずです。岩がお米を食べるという伝承も、あるいは、そうした古代の祭りの姿が反映されたものなのではないでしょうか。それが国占めと呼べるような大げさなものであったかどうかはともかく、少なくとも、少し滑稽なこの話の基層として米かみ岩を舞台とした古い信仰があったことだけは確かだと思います。余談になりますが、『播磨国風土記』には国占めの神話が多く、その一つに「五月夜」の地名起源説話があります。この説話の背景も所説ありますが、一種の農耕儀礼を表しているとも考えられていて、こちらは宍人を連想させる内容になっています。播磨と全く同じ祭祀が当地で行われていたとは思いませんが、本項冒頭でも述べたように、摩気地区には食膳や農耕儀礼を類推させる地名や伝説が多いのが特徴で、そのあたりは大御饌津彦命を祀る摩気神社の信仰圏という土地柄ゆえでしょうか。
さて、そんな「米かみ岩」ですが、現在では『石造物調査』の地図と写真がなかったら絶対に見つからなかっただろうと思うくらい旧道の藪の中に埋もれていて、ただの岩石に戻りつつあります。少し寂しい気もしますが、これもまた仕方のないことなのでしょう。
宍人の風穴(園部町宍人)
宍人の本梅街道筋にある風穴で、岩の間から涼しい風が出てくるので、昔から道中の人々にとって一休みするのに丁度良い場所であったと言われています。地元では、この風穴は胎金寺山をくぐり、摩気神社まで通じていると伝えらえているそうです。本梅川の護岸工事をした際にも風穴のある場所は埋めないようにしたそうで、今でも護岸の真ん中に穴が開いています。(旧版地図 G位置) 写真だと中央水面の小さな岩があるあたり。ガードレールからのぞき込むと風穴がなんとか見えるのですが、写真を撮るのはちょっと困難です。対岸からならしっかり見えそうですが、残念ながら車道から河原に降りる道がわからず断念しました。