蛭子神社(園部町仁江)

南丹市園部町仁江の蛭子神社

 

 園部町仁江の蛭子神社です。祭神は八重事代主命。『船井郡神社誌』によると創祀の年代は文禄三年(1594年) 中世に当社を氏神とする以前は、竹井に鎮座する摩気神社の直氏子であったと伝えられています。江戸時代に編纂された『寺社類集』の下新江村の項には「産神 蛭子大明神」とあり、今でも仁江地区の鎮守として変わらず崇敬されています。

 由緒にあるように当社は延喜式内 摩気神社と関係が深い神社で、古くは宍人の菅原神社と共に摩気神社の分社であったと言われています。摩気神社は園部町竹井に鎮座していますが、竹井はかつて「上新江」とも呼ばれていて、「下新江」と合わせて古く「新江郷」と称していました。おそらく分村以前は、摩気神社の鎮座する園部川中流域の広い範囲を「新江」と呼んでいたものと思われます。新江・仁江(にえ)とは即ち「新饗(にいえ)」のことで、新穀を神に饗(あえ)ること。食物・農耕を司る摩気神社のご祭神・大御饌津彦に奉る、または、その御神徳により作られる新穀の土地を称えて呼んだ地名であると考えられています。まさに摩気神の鎮座する土地を象徴する地名と言え、もしかすると古い時代の神領を表しているのかもしれません。『船井郡神社誌』には当社について「古来、三の宮とも称した」とあり、摩気神社の信仰圏に存在する神社の中でも当社が特別な地位にあったことが伺いしれます。秋に行われる摩気神社の神幸祭でも当地の氏子が重要な役割を担っており、御旅所に向かう摩気神社の神輿を仁江の稚児行列が出迎え、蛭子神社にいったん安置したのち祝詞を奏上。その後、御旅所においても流鏑馬等の特殊神事に奉仕しています。

 仁江地区の南の外れ、竹井地区との境に鎮座。背後の山地から舌状に延びる支尾根の先端部に境内があり、この支尾根にあたって園部川は大きく流れを変えています。鬱蒼と茂った神社の森が独特の景観を成していて、手前の草地と奥の森を隔てるようにして石鳥居が建っています。樹木が生い茂って昼なお暗い静謐な境内。拝殿の左右に向かい合うようにして2つの小祠があり、本殿向かって左手にも小さな鳥居と立石が祀られていました。『摩気春秋』には「境内神社に厄神社、山王社、塞神社の3つの社を祀る」とありますので、この三社がそれぞれに該当するのでしょうか。なお、同じく『摩気春秋』には立石の写真を付して「摩気神社の石」と紹介しているのですが、詳しい由来等は不明です。本殿の裏手には、おそらく磐座であろうと思われる大きな露岩があります。立石もそうですが、境内小祠の背後にもそれぞれ自然石が立てられており、こうした岩石信仰も当社の特徴の一つです。

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蛭子神社 境内入口
蛭子神社 境内入口
手前の欅は樹齢300年とも言われ園部町指定樹木になっている
 
鬱蒼とした神社の森
鬱蒼とした神社の森 石鳥居が神域を隔てる
 
蛭子神社 扁額
神社扁額
 
木漏れ日射す静謐な境内
木漏れ日射す静謐な境内
 
拝殿から本殿をのぞむ
拝殿から本殿をのぞむ
 
蛭子神社 本殿
蛭子神社 本殿
 
本殿裏手は崖になっており磐座と思われる露岩がある
本殿裏手には磐座と思われる露岩がある
 
拝殿向かって左の境内社
拝殿向かって左の境内社
『摩気春秋』には「境内神社に厄神社、山王社、塞神社の3つの社を祀る」とある
 
小祠の裏に立てられた自然石の依代
小祠の裏に立てられた自然石の依代
 
拝殿向かって右手の境内社
拝殿向かって右手の境内社
木札の文字はかすれているが満と書かれている気もする(天満宮だと思っていた)
 
こちらは丸みを帯びた石が依代として祀ってある
こちらは丸みを帯びた石が依代として祀ってある
 
本殿向かって左の立石
本殿向かって左に祀られている立石(摩気神社の石)
木札には「摩気大神」と書かれている 摩気神社の遥拝所なのかもしれない
 
社前には水田が広がる
社前には水田が広がる
境内には明治初期に小学校が建てられていたようだ(後に分校へ)
 

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