春日神社(園部町口人)
園部町口人の春日神社です。祭神は武甕槌命・経津主命・天児屋根命・宇須売(ウスヒメ)神の四神。『船井郡神社誌』によると創祀の年代は室町時代の文明二年(1470年)で、慶安四年(1651年)に再建。中口人地区の鎮守として今でも変わらず崇敬されています。半田川沿いの口人や口司といった集落はかつては南方の山を越えた本梅川沿いの地域と関係が深かったようで、当社も往古は薮田神社(式内 志多非神社に比定)の氏地であったと伝えられています。『船井郡神社誌』は薮田神社について「船井・桑田・多紀三郡にまたがる三十九ヶ村の総氏神で氏子1720余戸を有し(中略)以来星霜を経て各村分立し、三十二の末社を氏神として移し祀るに至った」とあり、また、薮田神社境内由緒書きには「薮田神社には現在の(境内に祀られている)二社の他にかつて三十七社も小宮があって広く亀岡・園部・篠山方面の三十九ヶ村が持ち帰って祀っている」と書かれています。つまり、当社に関しても元々は志多非神社(薮田神社)に祀られていた末社の一つがその前身ということになろうかと思います。
園部には当社を含め春日神社が多く祀られていますが、大部分は藤原氏との繋がりにより勧請されたものと考えられています。丹波は京に近いこともあって中世には中央有力貴族の荘園が広く経営されていました。園部においても皇太后藤原聖子の所領となり坊門流藤原氏に伝領された今林庄や摂関家の殿下渡領(氏長者が継承する所領)であった桐野牧などが藤原氏の荘園として知られ、それらの地域には内林町の奉斎する城崎神社(中世には春日神を祀る)や上木崎町の春日神社、高屋の春日神社など、地域の鎮守級の神社として春日神社が数多く祀られています。当社に関してはそのあたりの経緯ははっきりしませんが、隣接する本梅川流域の地域には藤原道長の私領として広大な面積を有していた野口牧が存在しており、この野口牧の中心地域に祀られていたのが当社とも関係の深い薮田神社になります。とすると、当社、あるいは元々薮田神社に末社として春日社が祀られていたとしても、やはり藤原氏との関係を考えるのが自然と言えそうです。なお、当社の鎮座する場所から峠を介して隣接する殿谷には鹿嶋神社が鎮座していて、同じく藤原氏との関係が推察されます。
口人の集落から少し離れた谷の奥まったところに鎮座しています。神社の前の山道を登っていくと殿谷峠で、峠を越えた先は古代の山陰道が通っていた本梅川流域の地域になります。今では峠を新世紀第二トンネルが貫き、園部市街地と篠山街道との往来がずいぶん便利になりました。朱の両部鳥居をくぐって石橋を渡った先に明るい境内。立派な社殿ですが、集落から離れていることもあって静かで落ち着いた雰囲気です。本殿の前には園部の神社ではよく見かける石竈が置かれていて、境内には大年神社・稲荷神社の二社相殿の小祠がありました。