治宮神社(園部町船岡)
園部町船岡の治宮神社です。祭神は応神天皇。『船井郡神社誌』によると、永禄年間に火災に遭い古記録を失ったとのことで、創祀など詳しい由緒は不明です。江戸時代に記された『寺社類集』の藁無村の項に「産神 治宮大明神」とあり、古くから藁無地区の鎮守として祀られてきました。中世には神社の後方の山に藁無城があり、当地は八木城に拠った内藤氏の同族によって治められていたようです。しかし、永禄7年(1563年)、同族間の争いにより藁無高山城は落城。社伝に云う永禄年間の火災というのはこの時の戦火を指すものと思われます。江戸時代の藁無城縄張古絵図によると当社の鎮座する場所は藁無城の大手にあたる場所だったようで、鳥居と社殿の絵図の横に「當山鎮守 治宮大明神」と墨書きされています。記録がない以上確かなことはわかりませんが、元々は城の鎮守として勧請されたものだったのかもしれません。
なお、隣接する松尾地区にも同じく応神天皇を祀る慈久神社があります。『寺社類集』の松尾村の項に「産神 慈久大明神」とあり、こちらも松尾地区の鎮守として古くから祀られてきた神社ですが、当社と同様に創祀の年代など詳しい由緒は不明です。『船井郡神社誌』では治宮に「じきう」とルビが振ってありますので、治宮・慈久といった漢字は当て字にすぎず、「じきゅう」という言葉の方に意味があるのだと思いますが、これが何を表しているのかよくわかりません。更にややこしいのは、『丹波 第19号』の中の「藁無高山城落城物語の謎」という論考の中では「藁無治宮(はるみや)神社」と記載されていて、治宮を「はるみや」と読ませています。社名の読みや漢字はしばしば変化するものですが、どうもスッキリしません。神社の歴史や性格を知るためのヒントになると思われますので、少し気になる社名です。
藁無集落の最奥、V字に割れた谷の入り口に鎮座しています。かつて藁無城の二の丸で城主の館があった場所と伝わる林松寺の脇の小道を谷川に沿って進むと鳥居があります。鬱蒼とした樹木が鳥居に覆いかぶさり、別世界へ続くトンネルのような雰囲気です。境内は社叢がつくる濃い影と木漏れ日のコントラストが印象的。境内には石段の手前に八幡宮、本殿の両脇に蛭子宮、および不明の小祠が祀られていました。『寺社類集』には末社として蛭子宮社、山神社の記載がありますので、不明の小祠は山神社なのかもしれません。
(2022.12.29追記)
『大堰の流れ』には「口碑によると、川辺においてこの神社が一番古いと言われている」との記載があります。口碑が正しければ、藁無城築城以前に祀られていた、かなり古い由緒をもつ神社なのかもしれません。また、『大堰の流れ』には当社の境内図が記載されているのですが、山神社と推測した境内社の位置には太神宮と記されていました。
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