走水神社(神奈川県横須賀市走水)
神奈川県横須賀市走水の走水神社です。江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』の三浦郡衣掛庄走水村の項に走水権現社(村の鎮守)として記載されている旧郷社で、走水集落の最奥、浦賀水道を眼下に望む台地の中腹に鎮座しています。創祀の年代はわかっていませんが、社伝によると日本武尊が東征の際に当地の村民に冠を賜ったとされており、その冠を石櫃に納め社殿を造営して日本武尊を祀ったのが当社の始まりであると伝えられています。
現在の祭神は日本武尊と弟橘媛命の二柱。このうち弟橘媛命は明治四十二年に近隣の旗山崎に祀られていた橘神社を合祀したものになります。『新編相模国風土記稿』には「相殿に牛頭天王を祀る」とあり、江戸時代には牛頭天王も祀っていたようですが、主祭神は日本武尊となっていて現在と相違ありません。このように、当社の祭神は古くから日本武尊で一定していたものと思われますが、祭神が日本武尊とされるようになったのには記紀の東征伝説の影響が大きいものと思われます。
『古事記』によると、東夷征討を命じられた日本武尊は相模国で国造の姦計によって野火の難に遭い、これを向い火で退け賊を打ち倒したという説話が記されています。その後、日本武尊命は走水から海を渡って更に東国を目指すわけですが、ここで語られるのが弟橘媛の入水の伝説です。
尊の一行が走水の海を渡ろうとしたとき、海峡の神が荒波をたてて行く手を遮ったので尊の乗る舟は危うく沈みそうになりました。その時つき従っていた后の弟橘媛命が尊の身代わりとなって海中に身を投じ、荒ぶる海神を鎮められたため一行は辛くも上総へたどり着くことが出来たと古事記は伝えています。この時、弟橘媛命がお詠みになったのが次の有名な歌になります。
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも
(相模の原野に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の身を案じ名を呼んで下さったあなたよ……)
悲劇的な色彩の強い日本武尊の伝説の中でも最もドラマチックなこのシーン。古くから聞く人に強烈な印象を与えてきたのではないでしょうか。東京湾や相模湾周辺には日本武尊や弟橘媛命を祀る神社や媛の帯や袖が流れ着いたと伝える土地がいくつかありますが、これらもそうした古の人々の心情によって、元々その土地に伝わる漂着神や海神の信仰に記紀の悲劇的な伝説が重ね合わされ成立していったものなのかもしれません。
ところで、相模国に入った日本武尊は三浦半島の走水から東京湾を横断して上総国へ向かっていますが、どうして陸路を進まず海路を通ったのでしょうか? 現代から考えるとちょっと変わったルートのように思えます。ところが古代においてはこれが官道、つまり主要国道だったのです。
645年以降に行われた大化の改新は、日本の政治制度を中国に倣った中央集権国家へ変質させようとするものでした。律令法に基づいた国家制度が形成されていく中で駅制・伝馬制という交通制度も規定され、都を中心とした官道である七道駅路(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)が整えられていきました。この駅制の大要をいうと、全国の官道を大・中・小の三等に区分し、道に沿って三十里ごとに駅を設置するというものです。駅には駅馬が置かれ、中央と地方との間の素早い情報伝達を目的としていました。この制度の中で武蔵国は当初東山道に属していたため、奈良時代の東海道は相模国から東京湾を渡って房総半島の上総国へ至り、そこから半島を北上して下総国から常陸国へ達していました。日本武尊の東征はあくまで伝説ですが、その経路は当時の公道を確かに反映したものなのです。
鎮座地の走水ですが、これは現在でも海上交通の難所として知られる浦賀水道の流れの速い様から生じた地名だとする説もありますが、『地名の探求』では以下のようにその由来を推測しています。
「走水というのも、走井と同じく湧水のことで、勢いよく湧き流れる水の意である。三浦半島の東岸、浦賀水道に面した小湾に、走水(横須賀市)という漁村がある。日本武尊の妃、弟橘媛の伝説のある所で、ここに豊富な湧水があり、横須賀軍港の時代に海軍によって早くこの泉を水源とする水道がひかれ、戦後、横須賀市が無償でゆずりうけて市水道の水源とした。この走水の地名は、恐らくここの湧水に基づくのであろうと思う(松尾俊郎 『地名の探求』 昭和60年 新人物往来社)」
ここに述べられているように走水は昔から水の豊かなところとして知られ、今でも日量約二千トンの地下水が年間を通じて取水できる、横須賀市内唯一の水源地として利用されています。境内には富士山から長い歳月をかけて湧き出すと云われる湧水があり、河童伝説を伴う水神社も祀られているなど、今でも水と深い関わりをもっているように見えます。走水の神は、記紀の伝えるところから荒ぶる海の神としてのイメージが強いですが、水の神として信仰された一面もあったのかもしれません。
訪問したのは七月の中旬。神社には併設して駐車場がありますが、駐車場までの集落内の道が非常に狭くて少々てこずりました。境内には夏祭りの幟が立てられていて華やかな雰囲気。境内からは蒼い海と遠く房総までが見通せ、緑も多くてとても落ち着く場所でした。急な石段を登った先に拝殿と本殿。本殿の右手には日本武尊の従者や弟橘媛命に殉じた侍女等を祀る別宮が鎮座。小さな社を小さな狛犬が護っています。本殿背後には崖を穿ってつくられた「やぐら」があり、内部に水神社が鎮座。走水に伝わる河童伝説にちなんでか、河童の人形がお供しています。参拝した当日は暑さの厳しい一日でしたが、本殿背後のこの一画だけは崖から湧水が滲み出すのか、しっとりとした独特の雰囲気でした。
拝殿左手からは山道が延びていて、わずかに登ったところに三つの祠が鎮座。中央に神明社、左右に諏訪神社と須賀神社。祠の上を樹木が覆いかぶさるようにのび、神域らしい厳かな雰囲気の場所でした。『新編相模国風土記稿』には走水権現社と同じく別当・大泉寺持ちの神社として神明宮、諏訪社の記載があるので、この小祠のうち二社は風土記稿記載の神社だと思います。残る須賀神社の由来は不明ですが、須賀神社の祭神(素盞嗚尊)からすると、恐らく江戸時代に相殿として祀られていた牛頭天王を移したものではないでしょうか。参拝したときは夏祭りの幟が立っていましたが、走水神社の夏祭りは本来、末社・須賀神社の例大祭とのことで、『新編相模国風土記稿』に「相殿に牛頭天王を祀る 六月七日に神事あり」とあるのに対応しているように思います。恐らく、明治の神仏分離の際に相殿から境内社に移し、名前も須賀神社に改めたものと思われます。